◆ 史料とエッセイ

石橋(旧姓・安藤) 眞砂子(井草幼稚園・元教諭)
〜運動会あれこれ〜
 今年の運動会は雨で順延でしたね。家の近くの小学校も同じでした。現在は電話という 通信手段で難なく情報が流れますが一クラスに3、4軒位しか電話がついていな かった? 頃、当然雨天順延でした。準備も、前日からの大掛かりなものも無く、 土・日は避けました。何故なら園児が今の倍はいましたから観客が多いと動きが とれません。お父様は殆ど見かけませんでした。卒園生も残念ながら参加できま せんでした。

  母の会も結成前、、私達先生だけで何もかも順備・進行でした。
クス玉の籠を荻窪の籠やさん迄、フミ子園長先生と注文にいったことを懐かしく 思いだします。それに紙を張ってリハーサルを何度も試みました。
旗体操の小旗をたくさん作るのが大変でした。紙がすぐ破けるので予備もいりま したし。

  「母の会」が出来て運動会は、当日の道具の持ち運び等手伝っていた だけるようになり、お陰で子ども達の動きに目の届く余裕のある運動会が出来る ようになりました。
  いくら記憶を手繰りよせても、雨で延びた思い出は無くて途中霧雨程度の日が あったかしらと、当時の先生と話しています。
  ・・・広く伸び伸びと・・・の願いから「ニッサングランド」迄いろいろと運 んで秋空のもと旗体操も間隔を充分にとり、三輪車競争・リレーと盛りだくさん に楽しみましたが、「狭くても井草の園庭が一番幼稚園の運動会らしい」ということになりました。

  あの頃の体操・歌・そして園歌と時は流れても良いものは変わらずに 受け継がれていますね。伝統って素晴らしいものですね。
園児たちの可愛いしぐさ。元気な姿。
  若いお母様がたのお手伝いの身軽さ!!
アナウンスの軽妙な解説。とても楽しい運動会でした。
昭和25年度 園庭での運動会

〜第1次南極探検隊のころ 昭和31年〜
 過日、板橋区にある「国立極地研究所」【注1】を見学してきました。日本発の南極探検は1956年(昭和31年)11月8日 第1次南極観測隊「宗谷」で出発。翌年、1月25日南極着。
1月29日に昭和基地を開設し、越冬観測が開始されました。

 当時このプロジェクトは単なる国家の事業ではなく、国民的事業でした。井草幼稚園ではその頃、ペンギンの歌≠毎日、大合唱して盛り上がっていました。
  ♪ペーンペーン ペンギン ペンギン ペンギン
  ペーンペーン ペンギンさんは どこにいる
  遠い南の寒い国 氷の国に 住んでいる…… (以下略)♪

保育室では黒板に「宗谷」の絵が描かれ、ペンギンさんは、大人気。「宗谷」は帰途氷に囲まれ、オビ号に助けられ無事4月24日帰国しました。日本国中みんなで心配しました。そして、南極越冬犬、タロ・ジロのこと。

2代目「ふじ」 現在の観測船「しらせ」は「宗谷」の4倍です。
さて先日、第1次から第15次まで計7回参加の 村山雅美隊長(88歳)【注2】が亡くなられたとの報を見ました。
南極への人類の情熱に感動。重ねての井草の園児たちとの想いでもよみがえった1日でした。
黒板に描かれた南極観測船・宗谷丸。右側に「なんきょくたんけん」の文字が見えます。絵の見事な出来栄えと子供たちの得意気な表情にご注目! 昭和32年の卒業アルバムです。

【注1】国立極地研究所:板橋区加賀1-9-10 03-3962-4747
URL http://polaris.nipr.ac.jp/japan/index.html
【注2】村山雅美(まさよし)さん:1968年に日本人として初めて南極点に到達した元南極観測隊隊長。平成18年11月5日 88歳にてご逝去。

〜ヴューラーちゃんのこと〜
終戦後、園の近くに住むアメリカ人家族の女の子、ヴューラー・スコットちゃんが入園してきました。日本占領政策の進駐軍の仕事で日本へ来たお父様は弁護士とか・・・日本人のしっかりしたメイドさんが送り迎え。
しばらくして善福寺公園の四条邸に越されましたが殆ど休むことなく子供達とすっかり仲良しになりました。お弁当はいつもケチャップ味のスパゲティ。おかずらしいもの無し。とても質素でした。クリスマスには、園児たちを自宅に呼んでくださり大きなツリーを見せてもらいました。

  夏休みに入ってから、朝霞米軍キャンプ将校家族パーティに園児たちの出演依頼がきました。急なことで、出られる子供たちを集めて迎えの車で・・・ライトで照らされた美しい芝生に白いテーブル・家族達の温かい視線を感じながら、まず 故フミ子園長の日本語のご挨拶。ピアノ・マイクで歌っての遊戯、男女二人組になって 「どんぐりころころ・松ぽっくり・リズムダンスいろいろ」 園児たちの元気のいい、かわいい姿に大喝采をあびました。
退場後、くちにしたことも無かったジュースとケーキ。そしてお土産は、それぞれにかわいい子供服。これは、当時の園児だった小川(旧姓・藤井)洋子さんが覚えていて懐かしそうに思い出してくださいました。
  あの夜の情景は、まるで「ディズニー映画」のひとこまだったかのように思い出されるのです。
 (平成18年6月記)
編集者・注  ヴューラーさんはその後昭和44(1969)年5月に、20年以上ぶりで井草幼稚園に遊びに来られました。写真(左)は左から順にヴューラーさん、小川(旧姓・藤井)洋子さん、故・園長です。小川さんと故・園長は当ホームページのこのコーナー、【思い出館】→【往時をふりかえって】で対談されています。その中でも小川さんはヴューラーちゃんのことを懐かしくお話しされています。そのページの写真もご覧になってみてください。

〜中西悟堂さんと鳥寄せ、谷口さんのこと〜
 5月10日からの一週間はバードウィークです。そこでふっと思い出しました。終戦後間もない昭和21、2年のことでした。「日本野鳥の会」の創始者・中西悟堂さんが幼稚園に見えて、「鳥寄せ」をしてくださいました。「静かにしてるんですよ。これから鳥を呼ぶからね。」と手と口で鳥寄せをなさいました。みんなしゃがんだままの姿勢で、かなりの時間ジーっと待っているうちに園庭の樹木に、屋根に、小鳥がちらほらやってきたではありませんか。みんなびっくりしました。あの頃は自然も汚されていなかったからですね。
調布市・深大寺境内にある
中西悟堂の胸像

 その中西悟堂さんが常連客として通っていた理髪店が、地蔵坂から善福寺へ曲がったバス通り沿い、桃四小近くに今も当時のままの姿で続く谷口理髪店です。そこの二人のお子さん、姉の知栄子さんと弟の高司さんは井草幼稚園の卒園児。弟の高司さんは、中西悟堂さんの影響を受けて、野鳥を研究。今は亡きお父さんの後を継いで理髪店を営む傍ら、特に野生のフクロウの観察画と研究では世界的な業績を残しています。
 先月4月25日のこと。なんと驚いたことに思いがけなくお姉さんの知栄子さんから お元気ですか と電話をいただきました。懐かしいやら嬉しいやらで早速会話は、幼稚園時代、 それも60年も前のこと!! お弁当の話。お米が普通では手に入らない時代。明日はサツマイモ「代用食」と決められたことでサツマイモが嫌いで困ったお母さんがお芋を赤く染めて持たせてくれたこと。そのほかいろいろと……「よく覚えているわね。」「先生と話していると思い出すの」最後に「同窓会ってないのですか」って聞かれました。
と、云うわけで とても嬉しい良い日でした。
(平成18年5月記)
 編集者注――中西悟堂(なかにしごどう):明治28(1895)〜昭和59(1984)年
歌人・詩人・野鳥研究者。幼い頃、深大寺で得度し天台宗の僧籍も持つ。杉並区善福寺地区に在住し昭和9年に「日本野鳥の会」を創立。「野鳥」という言葉を造ったのも中西さんです。新潮社の季刊誌『考える人』には小林照幸氏による評伝「中西悟堂の空」が連載中です【2005年春号・第1回〜野の鳥は野に〜 2005年夏号・第2回〜夜が勝手に明けたんだ〜 2005年秋号・第3回〜文明のアフターケア〜 2006年冬号・第4回〜開発しないことが開発になる〜 2006年春号・第5回〜益鳥を焼き鳥にするな〜 次号に続く】。

〜築山の思い出〜
井草幼稚園の園庭に築山がありました。
現在道路側にある保育室が建っている場所(※1)です。 渡り廊下から南へ2クラスを増築した時(※2)に、創立以来の園児達の遊び場所としての役目が終わり、姿を消しました。
築山は頑丈な大きな土管(どかん)が入っていました。大人も、もぐれました。
コンクリートではなくて、しっかりと土で固められて築かれたお山。
春はお隣のお宅の庭の美しい桜が借景になり、桜吹雪で築山を飾ってくれました。
てっぺんには支柱。旗や鯉のぼり、七夕飾りも、はためきました。
ヨーイドンと駆け上がったり、滑り降りたり、元気な歓声が上がります。
雨降りでも、わざわざもぐり込みに行く子、子供達が帰った後の土団子。
あの頃の情景が懐かしく浮かびます。
築山が消えた後も、土管(どかん)だけは暫く残っていて(※3)、上によじ登ったり飛び降りたりして、結構楽しい遊具になりました。
昭和10(1935)年7月7日
築山と七夕飾り
現在も残る築山のどかん
編集者注― ※1  現在のグロッケンタワーの後ろの年中組と年長組の部屋の棟の場所
※2 昭和31(1956)年に園舎増築
※3 その土管は現在でも残っています。どこにあるかもうわかりますよね。

〜わたしの保育学校在学時代と戦争〜
戦時中、私は保育学校に入学しました。入って間もなく祐天寺幼稚園に実習に行きましたが、空襲警戒警報のサイレンが鳴ると、全員防空頭巾をかぶって手分けして園児を家の方へ送りとどけます。落ち着いて保育どころではありませんでした。疎開が始まって子供も少なかったですね。

私は旧本所・深川・東京下町大空襲「十万人の死亡」の中でからくも生き残りました。それが昭和20年3月10日、死者10万人以上にのぼるいわゆる「東京大空襲」です。
その翌日には、後年テレビ・ドキュメントでも放映される墨田公園、言問橋の惨状をこの目ではっきりと脳裏に焼き付けながら、焼死体だらけの浅草を抜けて中央線の駅まで歩き、荻窪の親戚宅へ弟と共に引き取られました。兄は予科練出身で戦地へ。下の弟は学童疎開。

空襲はその後も続き頻繁に東京を焼き払い、私の在学していた保育学校(旧小石川区の淑徳高女付属の東京高等保育)一帯を5月27日に焼け野原にしてしまいました。
それでも仮住まいの学校で授業は続行。近くの鉄筋二階建て伝通会館の2階です。焼け跡から燃えるものを拾ってきては先生の為のお茶を当番が沸かしました。
先生方も生徒も、焼け跡の乗り物が通らなくなった道をそれぞれテクテクと歩いて通いました。帰り道は何人かで腕を組み、大きな声で歌いながら、街灯もない道を恐さを払いのけるようにして国電まで歩きました。
終戦は学校で迎えました。皆で皇居まで歩いて二重橋前で土下座してきました。
テレビにうつる当時の姿は自分自身だと感慨無量です。

空襲で焼ける前の学校には生徒の為のピアノ・オルガンがいくつか揃っていました。いまのように子供の時から楽器に触れていた人はごく少数でしたから、順番待ちで練習。ところが戦災後の仮住まい校舎では楽器が無いので、頼りになるのは自分の体だけ。どこからかオルガンが一台ポツンと届きましたが、ひたすら歌ったり、体を動かしての音楽リズムの授業。その他の科目も教科書は無し。
そんな毎日が続いていましたが、突然思いがけなくNHKから『幼児の時間』に出演の話が来て、お正月に出演!!全国放送、大変なことでした。当日はマイクの前でみんな緊張しましたが、無事放送終了。とっても元気が出ました。
終戦の翌年1946年(昭和21年)1月、勿論ラジオ放送です。

〜戦時農繁託児所のこと〜
1945年敗戦色濃く、幼稚園はどこも休園状態。
そんな時、群馬県から農繁託児所(農繁期に限って農家の子供を預かる施設) 開設の依頼がきて、二人一組で任地へ出発。場所は高崎から入った農村・青梨。榛名山を望む美しい村でした。
天神さまの社務所が借りられて、早速、村中をまわってご挨拶。翌朝、幼児たちが20人くらい来てくれたので、歓声をあげました。ガランとして設備は無く、あの手この手で夕刻親が迎えに来るまで、子供たちと遊びました。
午後になると、小学生やお年寄りまで集まってくるので、仲間に入ってもらったり、開けっ放しの社務所でみんなでお昼寝。終わると掃除をして、合宿所へ帰り、自炊、反省会。十日近く過ぎて、可愛い子供達とのつらい別れ。お土産は青梅に小麦粉どっさり。
帰りの高崎駅で空襲。機銃掃射を浴びて、アッ、戦争だった と途端に現実に引き戻されました。

〜宇野信夫さんのこと〜
宇野信夫:劇作家 演出家 明治37年(1904)〜平成3年(1991)
宇野信夫さんは、昭和の黙阿弥ともいわれた劇作家。下町の人情こまやかな歌舞伎世話物狂言に数々の名作が残され、上演し続けられています。
ご子息方が井草幼稚園に通園。よく和服姿で門まで送り迎えしておいででした。
担任の原田先生とふたり熱烈な歌舞伎ファンでしたが、私は恐れ多くて離れたところでお辞儀をするのが、やっとでした。
昭和28年頃、教材もまだ十分でなく、各家庭に裏が白い紙なら綴じて自由画帳にしてとお願いしていました。「見て見てカッチャンのノート」原田先生に言われて覗いてみると、何とそれは「新国劇・宮本武蔵」の台本の原稿用紙が利用されていたのです。随所に”お通さん”の文字があったと今でも記憶しています。島田・辰巳どちらが武蔵だったのでしょうか。あのノートはどうなったでしょう。
先年、小金井公園(江戸東京たてもの園)のなかで、宇野さんのお茶室がご自宅から移築保存されているのを拝見。丁度お茶会があって中に入れず心残りでした。次の機会にと思っています。

〜豚の赤ちゃんを見た日〜
テレビがまだ無かった時代、幼稚園で見る紙芝居・人形劇は子供達の楽しみの一つ。とりわけ『三匹のコブタ』は人気がありました。
近くにある農芸高校で、かわいい豚の赤ちゃんが生まれたと聞いて早速、みんなで見学に出かけた日のことを思い出します。大きな丸々とした母さん豚がドンと横になって、ちっちゃな赤ちゃん子豚が並んだオッパイにぶらさがるように吸い付いてクイクイクイって。
みんな目をまん丸にして「カワイイネエ。チッチャイネエ。」農芸高校の先生からお話を伺ったり、生徒さんの頼もしい作業ぶりを見たりしてとても楽しい日でした。

杉並区立・井荻小学校は昭和27(1952)年の創立です。
幼稚園の卒業生も大勢お世話になり立派に巣立っていきました。
懐かしく思い出されるのは当時、幼稚園児も何度か運動会のプログラムに入れてもらって、かわいい姿を見ていただいたことです。今でも井草幼稚園で続く「旗体操」「ハトぽっぽ体操」、そしてリズムダンスなどなど。
園庭より広い校庭で、みんなで大きな輪を作ってのびのび手足を伸ばして動きまわりました。「出てくるだけで可愛いわね」と大勢の観客席からは大拍手を頂いて、しっかり手を振って胸はっての退場。きっと内心はドキドキしていたかもしれませんが、とてもたのしい経験でした。
園児もまざっての井荻小運動会(昭和29年10月10日)


「素晴らしいお天気ね。今日は幼稚園にいてはもったいないから、出かけましょう」 衆議一決、よくお弁当を持って、うきうきと出かけました。
子供がたくさんいた時代。園児は当時200名位いたでしょうか。ぞろぞろと出かけました。
善福寺公園は昭和20年代まだ手の加わらない豊かな自然そのままの美しい公園でした。
春はオタマジャクシ。秋はドングリ落ち葉拾い。池に面した急な傾斜は横になってごろごろ転がったりすべり降りられる絶好の遊び場です。歓声あげて枯草だらけになって思いきり遊べました。
お弁当を開くとすぐ近くにお住まいの園児のお母様がヤカンでお茶を用意して下さったり、手足を洗わせて頂いたりしたこともあって懐かしい思い出です。
井草幼稚園の設計・建築をされたのは、森 久吉 先生です。
森先生は 初代園長 鈴木 積善 先生の親友、日本童話会のメンバーと伺っていました。
幼稚園にいらして楽しいお話をしてくださいました。今でも森先生のお話はとても面白かったと懐かしむ年配の卒園生がいます。田崎秀夫氏。
卒園式にはステージでゆっくりと風呂敷をほどいて十分子どもの注意を引き、中から紙芝居をとりだされる間(ま)の面白さ、独特のお声、楽しい語り口は子どもを喜ばせ和やかな式にしてくださいました。
「この紙芝居は置いていきます。また先生にしていただきなさい。」
優しいお人柄、人懐っこいお顔を思い出します。
本園を設計された 森 久吉 先生


敗戦から、まだ半年過ぎたばかりの廃墟となった東京で幼稚園はとても立ち直れませんでした。
其の中で幸い焼け残ったこの地で井草幼稚園は昭和21年早くも開園。思いがけず多勢の子供が入園してきました。
その年の秋の貴重な記念写真を眺めています。可愛い子達が並んでいます。草履、下駄履きの子、クリクリ坊主頭の子。アレッ!考えてみると皆60歳は過ぎてる筈!
でも私にとってはいつまでも永遠に井草の園児です。
あの子 この子の笑い声、あの頃がよみがえります。
衣食住のどん底時代、戦中から戦後 お母さん達は 子供を守る為にどんなに大変だったことでしょう。
いま、つくづくこの時代に考えさせられます。