〜わたしの保育学校在学時代と戦争〜 |
戦時中、私は保育学校に入学しました。入って間もなく祐天寺幼稚園に実習に行きましたが、空襲警戒警報のサイレンが鳴ると、全員防空頭巾をかぶって手分けして園児を家の方へ送りとどけます。落ち着いて保育どころではありませんでした。疎開が始まって子供も少なかったですね。
私は旧本所・深川・東京下町大空襲「十万人の死亡」の中でからくも生き残りました。それが昭和20年3月10日、死者10万人以上にのぼるいわゆる「東京大空襲」です。
その翌日には、後年テレビ・ドキュメントでも放映される墨田公園、言問橋の惨状をこの目ではっきりと脳裏に焼き付けながら、焼死体だらけの浅草を抜けて中央線の駅まで歩き、荻窪の親戚宅へ弟と共に引き取られました。兄は予科練出身で戦地へ。下の弟は学童疎開。
空襲はその後も続き頻繁に東京を焼き払い、私の在学していた保育学校(旧小石川区の淑徳高女付属の東京高等保育)一帯を5月27日に焼け野原にしてしまいました。
それでも仮住まいの学校で授業は続行。近くの鉄筋二階建て伝通会館の2階です。焼け跡から燃えるものを拾ってきては先生の為のお茶を当番が沸かしました。
先生方も生徒も、焼け跡の乗り物が通らなくなった道をそれぞれテクテクと歩いて通いました。帰り道は何人かで腕を組み、大きな声で歌いながら、街灯もない道を恐さを払いのけるようにして国電まで歩きました。
終戦は学校で迎えました。皆で皇居まで歩いて二重橋前で土下座してきました。
テレビにうつる当時の姿は自分自身だと感慨無量です。
空襲で焼ける前の学校には生徒の為のピアノ・オルガンがいくつか揃っていました。いまのように子供の時から楽器に触れていた人はごく少数でしたから、順番待ちで練習。ところが戦災後の仮住まい校舎では楽器が無いので、頼りになるのは自分の体だけ。どこからかオルガンが一台ポツンと届きましたが、ひたすら歌ったり、体を動かしての音楽リズムの授業。その他の科目も教科書は無し。
そんな毎日が続いていましたが、突然思いがけなくNHKから『幼児の時間』に出演の話が来て、お正月に出演!!全国放送、大変なことでした。当日はマイクの前でみんな緊張しましたが、無事放送終了。とっても元気が出ました。
終戦の翌年1946年(昭和21年)1月、勿論ラジオ放送です。
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〜戦時農繁託児所のこと〜 |
1945年敗戦色濃く、幼稚園はどこも休園状態。
そんな時、群馬県から農繁託児所(農繁期に限って農家の子供を預かる施設) 開設の依頼がきて、二人一組で任地へ出発。場所は高崎から入った農村・青梨。榛名山を望む美しい村でした。
天神さまの社務所が借りられて、早速、村中をまわってご挨拶。翌朝、幼児たちが20人くらい来てくれたので、歓声をあげました。ガランとして設備は無く、あの手この手で夕刻親が迎えに来るまで、子供たちと遊びました。
午後になると、小学生やお年寄りまで集まってくるので、仲間に入ってもらったり、開けっ放しの社務所でみんなでお昼寝。終わると掃除をして、合宿所へ帰り、自炊、反省会。十日近く過ぎて、可愛い子供達とのつらい別れ。お土産は青梅に小麦粉どっさり。
帰りの高崎駅で空襲。機銃掃射を浴びて、アッ、戦争だった と途端に現実に引き戻されました。 |
〜宇野信夫さんのこと〜 |
| 宇野信夫:劇作家 演出家 明治37年(1904)〜平成3年(1991) |
宇野信夫さんは、昭和の黙阿弥ともいわれた劇作家。下町の人情こまやかな歌舞伎世話物狂言に数々の名作が残され、上演し続けられています。
ご子息方が井草幼稚園に通園。よく和服姿で門まで送り迎えしておいででした。
担任の原田先生とふたり熱烈な歌舞伎ファンでしたが、私は恐れ多くて離れたところでお辞儀をするのが、やっとでした。 |
昭和28年頃、教材もまだ十分でなく、各家庭に裏が白い紙なら綴じて自由画帳にしてとお願いしていました。「見て見てカッチャンのノート」原田先生に言われて覗いてみると、何とそれは「新国劇・宮本武蔵」の台本の原稿用紙が利用されていたのです。随所に”お通さん”の文字があったと今でも記憶しています。島田・辰巳どちらが武蔵だったのでしょうか。あのノートはどうなったでしょう。
先年、小金井公園(江戸東京たてもの園)のなかで、宇野さんのお茶室がご自宅から移築保存されているのを拝見。丁度お茶会があって中に入れず心残りでした。次の機会にと思っています。 |
〜豚の赤ちゃんを見た日〜 |
テレビがまだ無かった時代、幼稚園で見る紙芝居・人形劇は子供達の楽しみの一つ。とりわけ『三匹のコブタ』は人気がありました。
近くにある農芸高校で、かわいい豚の赤ちゃんが生まれたと聞いて早速、みんなで見学に出かけた日のことを思い出します。大きな丸々とした母さん豚がドンと横になって、ちっちゃな赤ちゃん子豚が並んだオッパイにぶらさがるように吸い付いてクイクイクイって。
みんな目をまん丸にして「カワイイネエ。チッチャイネエ。」農芸高校の先生からお話を伺ったり、生徒さんの頼もしい作業ぶりを見たりしてとても楽しい日でした。 |
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杉並区立・井荻小学校は昭和27(1952)年の創立です。
幼稚園の卒業生も大勢お世話になり立派に巣立っていきました。
懐かしく思い出されるのは当時、幼稚園児も何度か運動会のプログラムに入れてもらって、かわいい姿を見ていただいたことです。今でも井草幼稚園で続く「旗体操」「ハトぽっぽ体操」、そしてリズムダンスなどなど。
園庭より広い校庭で、みんなで大きな輪を作ってのびのび手足を伸ばして動きまわりました。「出てくるだけで可愛いわね」と大勢の観客席からは大拍手を頂いて、しっかり手を振って胸はっての退場。きっと内心はドキドキしていたかもしれませんが、とてもたのしい経験でした。 |
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園児もまざっての井荻小運動会(昭和29年10月10日)
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「素晴らしいお天気ね。今日は幼稚園にいてはもったいないから、出かけましょう」 衆議一決、よくお弁当を持って、うきうきと出かけました。
子供がたくさんいた時代。園児は当時200名位いたでしょうか。ぞろぞろと出かけました。
善福寺公園は昭和20年代まだ手の加わらない豊かな自然そのままの美しい公園でした。
春はオタマジャクシ。秋はドングリ落ち葉拾い。池に面した急な傾斜は横になってごろごろ転がったりすべり降りられる絶好の遊び場です。歓声あげて枯草だらけになって思いきり遊べました。
お弁当を開くとすぐ近くにお住まいの園児のお母様がヤカンでお茶を用意して下さったり、手足を洗わせて頂いたりしたこともあって懐かしい思い出です。 |
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井草幼稚園の設計・建築をされたのは、森 久吉 先生です。
森先生は 初代園長 鈴木 積善 先生の親友、日本童話会のメンバーと伺っていました。
幼稚園にいらして楽しいお話をしてくださいました。今でも森先生のお話はとても面白かったと懐かしむ年配の卒園生がいます。田崎秀夫氏。
卒園式にはステージでゆっくりと風呂敷をほどいて十分子どもの注意を引き、中から紙芝居をとりだされる間(ま)の面白さ、独特のお声、楽しい語り口は子どもを喜ばせ和やかな式にしてくださいました。
「この紙芝居は置いていきます。また先生にしていただきなさい。」
優しいお人柄、人懐っこいお顔を思い出します。 |
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本園を設計された 森 久吉 先生
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敗戦から、まだ半年過ぎたばかりの廃墟となった東京で幼稚園はとても立ち直れませんでした。
其の中で幸い焼け残ったこの地で井草幼稚園は昭和21年早くも開園。思いがけず多勢の子供が入園してきました。
その年の秋の貴重な記念写真を眺めています。可愛い子達が並んでいます。草履、下駄履きの子、クリクリ坊主頭の子。アレッ!考えてみると皆60歳は過ぎてる筈!
でも私にとってはいつまでも永遠に井草の園児です。
あの子 この子の笑い声、あの頃がよみがえります。
衣食住のどん底時代、戦中から戦後 お母さん達は 子供を守る為にどんなに大変だったことでしょう。
いま、つくづくこの時代に考えさせられます。 |