それこそ夢中だったですね。子供も小さかったし、どうやって暮らして来たかと思います。兄や母が助けてくれたからどうにか……。大変だなんて言葉も出ないほど夢中でした。
当時、鈴木は「芸術自由教育」の岸辺福雄先生、久留島武彦先生をはじめ、童話関係の方々と親しくしておりました。鈴木が亡くなってから、岸辺先生が「ここは皆で助けて、盛り上げてやろう」とおっしゃって、童話関係の先生が毎月、お弁当持ちでいらして子供会を開いてくださいました。ある時、本多鉄麿先生と江崎小秋先生がいらして、ホールの上の部屋の窓から外を眺め…「あっ、富士山が見えますね」とおっしゃり、それを園歌にして下さったんです。 |
| そんなふうにして、皆さんが我が家のような気持ちで、この幼稚園に集まって下さったんです。時々考えるんです。窪地には雨水や何かが流れて来て、水が溜まるでしょう。それと同じように、ここは窪地で、自然に皆が集まって来て下さった……。そんな感じがするんです。ここは自分が建てた幼稚園なんかじゃない。お友達や先生、いろんな方の厚意で建ったのだから、私はここの忠実な番人になればいいんだと思ったんです。そして、ただただ夢中でした。母や兄達が経済的に助けてくれました。「二軒を一軒にしたら、何とかやっていけるだろう」と、ここに引っ越してきてくれました。 |
| そのうち戦争が始まって、疎開しだし、園児も減って…。幼稚園には休止の指令が出されました。そこで、戦時託児所に切り替えました。杉並区では戦時託児所の申請をして許可になったのは、二ヵ所だけでした。園庭には七間くらい(約13メートル)の長い防空壕を掘り、ホールは桃井第四小学校の分教場になりました。集団疎開しないで残っている子供達は、あっちこっち、お風呂屋さんとか広い所に分散して勉強したんです。 |
| 戦争はますます激しくなり、戦時託児所も休めということになり、分教場も何ヶ月かで駄目になりました。その後、軍人がやって来て、ここを事務所に空けてくれと言うのです。将校が剣を吊げて、ぎしぎしと長靴を履いたまま上がって来たんです。私は一生懸命、それこそ一生懸命に、「ここは子供の教育の場として建てたんですから、どうか靴で上がらないで下さい」と話したら、分かってくれました。 |