◆ 往時をふりかえって



対談 左/ 鈴木 フミ子 園長(当時)
右/ 小川 洋子さん(第18回本園卒業)
故・園長と小川洋子さん
この対談は平成5(1993)年、本園創立60周年を記念して行われ、『井草幼稚園創立60周年記念誌』に掲載されたものです。
なお鈴木フミ子園長(当時)は平成14年9月、97歳を以て逝去いたしました。

もう60周年になるんですね。幼稚園の昔話を聞かせてくださいね。60年なんて本当に遠い昔ですねー。
 まず、創立当時のことを話しますと、私の夫であります初代園長の鈴木積善はいわき市の寺での幼児教育の事業がみとめられ、社会事業として文京区小石川・伝通院の伝通会館の責任者として、東京へよばれたのがそもそものはじまりです。それは昭和4年のことでした。
 鈴木は,伝通会館では教化事業をやっていましたが、学生時代から子供の運動をしており、幼稚園を開きたいと考えていました。子供の居る所には鈴木が居るし、鈴木の所には子供が集まる、とにかく鈴木は子供の世界の人だと言われていて……その鈴木が幼稚園を建てるなら応援しようと言って、増上寺の御前様の椎尾辯匡先生、伝通院の木村玄俊先生をはじめ、全国に散らばっている先生方やお友達が応援して下さったんです。貧しい私たちの経済では、とても建てられませんものね。園舎や机、椅子…全部で4,500円ぐらいだったでしょうか…。伝通会館からはピアノを寄付して頂き、阿弥陀様も伝通院からお移し下さったんです。
 この場所は、この近くに住んでいらした黒沢武之助さんという、フレーベル館に勤めておられた発明家の方が見付けて下さいました。一目でここがとても気に入り、地主さんの所へ交渉に行ったんです。地主さんは「鈴木先生はぼくの弟みたいだ」と言って下さってね。そういう気持ちでこの土地を貸して下さったんです。

60年前はどんなでしたか?
 ずいぶん田舎で、バスも無いし、家もありませんし、ここいらずーっと畑でした。そんな畑の中で…初めは家の子を入れて4人か5人ぐらいでした。御茶ノ水を出た先生が一人、親戚の者が資格を取ったからと一人、主人と私と…まるで子供は陰に隠れていて分からない位で……。本当に、そんな位でした。そこから始めたんですから、やっていけそうも無いんですね。伝通会館から頂く月給をみんな注ぎ込んでも足りない位でした。
 主人はここから伝通会館に通っていました。夜も講話会や勉強会があって…。それで過労になっちゃった
んですね。幼稚園を創めて一年半で亡くなりました。私はその時29歳でした。

大変でしたでしょー。
 それこそ夢中だったですね。子供も小さかったし、どうやって暮らして来たかと思います。兄や母が助けてくれたからどうにか……。大変だなんて言葉も出ないほど夢中でした。
 当時、鈴木は「芸術自由教育」の岸辺福雄先生、久留島武彦先生をはじめ、童話関係の方々と親しくしておりました。鈴木が亡くなってから、岸辺先生が「ここは皆で助けて、盛り上げてやろう」とおっしゃって、童話関係の先生が毎月、お弁当持ちでいらして子供会を開いてくださいました。ある時、本多鉄麿先生と江崎小秋先生がいらして、ホールの上の部屋の窓から外を眺め…「あっ、富士山が見えますね」とおっしゃり、それを園歌にして下さったんです。
 そんなふうにして、皆さんが我が家のような気持ちで、この幼稚園に集まって下さったんです。時々考えるんです。窪地には雨水や何かが流れて来て、水が溜まるでしょう。それと同じように、ここは窪地で、自然に皆が集まって来て下さった……。そんな感じがするんです。ここは自分が建てた幼稚園なんかじゃない。お友達や先生、いろんな方の厚意で建ったのだから、私はここの忠実な番人になればいいんだと思ったんです。そして、ただただ夢中でした。母や兄達が経済的に助けてくれました。「二軒を一軒にしたら、何とかやっていけるだろう」と、ここに引っ越してきてくれました。
 そのうち戦争が始まって、疎開しだし、園児も減って…。幼稚園には休止の指令が出されました。そこで、戦時託児所に切り替えました。杉並区では戦時託児所の申請をして許可になったのは、二ヵ所だけでした。園庭には七間くらい(約13メートル)の長い防空壕を掘り、ホールは桃井第四小学校の分教場になりました。集団疎開しないで残っている子供達は、あっちこっち、お風呂屋さんとか広い所に分散して勉強したんです。
 戦争はますます激しくなり、戦時託児所も休めということになり、分教場も何ヶ月かで駄目になりました。その後、軍人がやって来て、ここを事務所に空けてくれと言うのです。将校が剣を吊げて、ぎしぎしと長靴を履いたまま上がって来たんです。私は一生懸命、それこそ一生懸命に、「ここは子供の教育の場として建てたんですから、どうか靴で上がらないで下さい」と話したら、分かってくれました。

それから日本が戦争に負けて、進駐軍が入ってきたのでしたね。私はその頃、この園にいたのですが、私の母は病弱でした。それで私がまだ幼稚園に通える年齢でもないのに、兄と一緒に園に来ていました。そして、朝、よく園長先生がリンゴをむいて食べさせてくれたことを憶えています。そのとき、ビューラーちゃんという進駐軍のアメリカの子供とも当園で仲良しになりました
 その戦争が終わると、幼児教育の必要性がさけばれるようになりました。私が「これっきり無いから幼稚園をやるよ」と言ったら、「馬鹿だね、敗戦国の日本なんて、幼稚園なんか成り立たないよ。保育園なら成り立つけど」と言われた。でも馬鹿の一つ憶えで幼稚園やったんです。
 そのうち、子供がどんどん増え、部屋も狭くなって…どうしようかと思っていると、卒業生のお母さん方が集まって後援会を組織して下さいました。。長尾ヤスさんが会長になって下さり、さっそく、幼稚園を増築しようという話になりました。会長さんは、子供のためになる仕事をするのが後援会の使命だからと、後援会費を集めたり、私と一緒に銀行に融資を頼みに行って下さったり……そして、建て増しすることが出来ました。
 何も知らない、なにもできない私を何とか助けてやろうと、会長さんは40年間、物心両面で幼稚園を支えて下さいました。自然科学教育の栗山重先生は43年間、体育指導の柏原健三先生から引き継がれた近藤充夫先生は30年弱と、皆さん長くいて下さって、幼稚園を盛りたてて下さいました。みんなから支えられ支えられ、本当に感謝の気持ちで一杯です。

ずーっと子供を見ていらして、いろいろお考えでしょうね。
 60周年を迎えるこの頃は、曾孫も三人になりました。曾孫ができたら、可愛くて可愛くてしょうがないのね。幼稚園の子供たちがみんな曾孫に見えるんです。体付きの可愛いこと。何するんでも可愛いことね。 走ってても、喧嘩してても、何してても可愛い。可愛いだけじゃ教育にならないけど、教育をするなんていう大それた私であってはいけないと思うの。自然の中で、怪我のないよう遊ばせなくちゃね。 遊びの中で伸びていくんですものね。
 昔は、井荻小学校の上が原っぱだったんです。とても素敵な所で、一本松がすーっと立っていて、そこにお弁当を持って遊びに行ったり、裏には田んぼもあって、栗山先生と田植えを見に行ったり、井荻小学校の沼には葦だの荻だのが生えていて……。
 お芋堀にも行きました。お母さんがぞろぞろと、金紗の着物を着て、白足袋はいてね。昔のお母さんてそういう風でしたね。

原っぱでお弁当(昭和11年)

先生もお着物でしたか?
 そうですね。母が町に行って、良い按配の反物があると買って来て、縫ってくれてね。母は一軒の家のお母さんの役をしてくれ、私は男の役を、幼稚園の仕事をしたんです。働き者の母でした。風が吹くと埃が入って、ホールが地面みたいになっちゃうんです。それを夜中の10時頃から掃いて、四つん這いになって一生懸命、雑巾をかけている母の姿を今も思い出します。表面には出ませんでしたが陰で、そういう風な仕事をしてくれて…八十八で亡くなりました。
 わたしも今年で八十八、母の歳まで生きられたなー、と。大病して、この頃は目も耳も不自由で、子供の声はよく聞こえないし、胸の名前も読めなくて…。でも、子供一人一人の行動が良く見えるんです。 子供の性格が一人づつ判ってきてね。どこまで手助けしたらいいかしらと考えるんです。一人一人違いますものね。
 幼稚園は還暦の60年。皆が見守っていてくれる、この有り難さ。

いいお話を有り難うございました。また聞かせて下さいね。

(平成5年 『井草幼稚園創立60周年記念誌』 所収)